福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について

武蔵野音楽大学の創立者である福井直秋。その生い立ちや、歩んできた道のりについてまとめてみました。

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ヨーロッパ視察旅行・戦争への歩みと文化再建

投稿日:2016年6月14日 更新日:

ヨーロッパ旅行

 

将来、武蔵野音楽大学設立に携わる福井には、昭和12年3月8日、ドイツ政府より赤十字名脊章を贈られています。

 

多年、音楽を通じて日独両国の親善友好に貢献したからでした。この時、同時に受章した者は、副島道正、嘉納治五郎、平沼亮三、光永星郎の4氏でした。

 

このことがあって、昭和13年11月11日、福井は文部省より作曲および音楽理論について在外(ドイツ)研究員を命じられてます。

 

その頃、福井は後の武蔵野音楽大学設立に繋がる学校創立・専門学校昇格等の大事業を終えて、比較的順当な日々を送っていたので心おきなく学校をはなれ、ヨーロッパ行きが可能でした。24日、福井は日本郵船の営崎丸に乗船、神戸港を出帆しました。

 

この旅行で福井は、ドイツのホッホシューレ(音楽大学)を初め、フランス、スイス、ハンガリーイタリア北部の諸地方などを巡りました。このヨーロッパ旅行は武蔵野音楽大学設立の教育者として、また音楽に従事する1人の人間として福井に数々の教訓と夢を与えてくれた。

 

 

戦争への歩みの中で

 

福井が武蔵野音楽大学の前進となる武蔵野音楽学校を創立した当時の世相は、厳しいものでした。

 

専門学校昇格の申請書を提出した昭和6年以降は、日本が太平洋戦争に突入し、昭和20年8月15日、連合国側に対し無条件降伏を申し入れるまでの悲劇的な歴史をたどる発端となった満州事変が勃発しているのです。

 

この不幸な日々のなかで武蔵野音楽学校は着々とその地歩を固め、将来への発展の力をたくわえていったことも、注目すべきことです。

現在のように平和な時代で武蔵野音楽大学含め、各音楽大学が発達している状況では想像しづらい部分がありますが、本来芸術とは戦争とは相容れぬものであり、人類の平等の平和と進歩を願う強い意志を持つものです。その中で音楽はもっとも人間的なものであり、言葉による意志の疎通という制約を持たないがために、もっとも普遍的であり、国境を越えて全世界の人々が共通にその美を感じ、その感動を歌える性格を持つものです。

 

それだけに、日本の昭和の極度の国家主義的指琢者たちにとって、音楽の本質は理解しがたく、むしろ排撃すべきものと映じたのも、また当然であったといえるかもしれません。

それに、もともと日本では、芸術が尊重される伝統ははなはだ稀でした。ことに音楽とは歌舞音曲という言葉のなかにひとまとめに押えられ、婦女子の遊芸とさえ思われていました。少なくとも「男子、一生の仕事になる」などとは一般には考えもされないのが、戦前の風潮だったのです。

 

 

 

再建日本と音楽

 

昭和20年8月15日以後の日本の社会は、まったく混乱の極に達していました。昨日までの指導者はその権威を失墜し、昨日までの埋想は1朝にして消え、人々は悪化する食糧事情の下で、その日の食を求めるだけの姿でした。

敗戦と外国軍隊による占領という日本歴史始まって以来の経験であれば、それもまた、致し方ないことです。

 

新しい指導理念や新しい日本の歩むべき道も、国民の中から自ずと生まれるという状態ではありません。それほど敗戦に至った道は、永く深く国民の心に傷を残していったともいえます。

その中にあって、わずかに数少ない人々によって、独自の「再建日本」への提案がなされたのでした。この人々は、全てなんらかの形で、軍国化する日本を憂い、戦争の無暴さと悲惨さを憂えた人たちです。それ故に戦前、戦中にかけて、多かれ少なかれ官憲より圧迫を受けた人々でもありました。

福井もまた、その中の一人でした。それ故に敗戦の挫折感から立ち直るのもまた早かったといえます。

 

今こそ己れの信ずる道を、声を大にして言い得る時代がきたと感じることが出来たともいえます。

福井は、疎開先、富山で、ただちに筆をとったのです。「再建日本と音楽」がそれでした。これは昭和20年、

富山の地方誌に発表されました。この論文の中で福井は、今後、歩む道となすべき仕事をはっきりと見定め、以後、武蔵野音楽大学を創立して亡くなるまで、その道を歩みつづけるのに、なんら変更を要しなかった面と信念を明確に伝えています。

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