福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について

武蔵野音楽大学の創立者である福井直秋。その生い立ちや、歩んできた道のりについてまとめてみました。

最近の投稿

教諭としての生活と中国への旅

投稿日:2016年6月11日 更新日:

長野県師範学校の頃

 

武蔵野音楽大学設立の足がかりが出来るもっと以前、福井が27歳の時でした。当時、富山師範を退職し、長野師範へ赴任したのは明治37年(1904)2月末。段々、音楽と教育という運命の歯車に乗っていこうとしている頃です。

 

福井は、音楽指導書を書きたいという意志をもっており、音楽書の原典を読むために、ドイツ語を学ぶ必要がありました。

長野師範にドイツ語の堪能な教師がいたことが、赴任の理由の―つだったようです。長野は教育のさかんな県で、音楽教育に限っても、その先進ぶりは驚異的なものでした。

 

長野師範でも、彼はみずからの作曲を教材としました。また、元より福井の教授法では五線譜を用いていましたが、全国でもっとも音楽教育が進歩していた長野県でも、五線譜に初めて出会った生徒達が大半だったのです。

 

 

音楽に深い関心をよせた生徒達も、音楽に無関心な生徒達も、福井から音楽の手ほどきをされた者達は皆、この黛陶を受けました。後年、福井が陸軍幼年学校教官として、音楽に無縁な生徒達を教授した際にも、音楽の持つ純粋な美しさは、多感な青年達の心を打ちました。

生徒達は、この美しい調べを週1回、自分に聴かせてくれた異質の音楽教官に、不思議な愛着と鮮明な思い出を残しています。その美のもつ力を、福井はこの長野時代にはっきりと自覚し、己れの美学を確立していきました。

武蔵野音楽大学設立に向かうまでの教育者としての才覚は徐々に確立していったと言えるでしょう。

 

中国への旅に向かうまで

 

武蔵野音楽大学の設立と発展に至る道程の中で、福井の海外での経験は、国際化に向かう時代の中で非常に重要なものとなりました。長野での生活を過ごした後、また運命の渦に巻き込まれるように、福井は中国へ渡ることとなるのです。

 

長野での福井の著作に必要な音楽図書の購入、上京費等、福井家の必要経費は収入に比して大変なものでした。福井が春夏秋冬を通してフロックコート1着ですませても、帳尻があうというものではなかったのです。

 

長女保子を亡くした直後、妻である光野に、東京華族女学校(女子学習院の前身)から、音楽教師に来てほしいという誘いを受けました。酷寒の長野の風土は、体が丈夫でなかった長男、直俊の健康に差し障ったこともあり、福井夫妻はこの要請を受けて、別居の生活に踏み切らねばなりませんでした。光野は子供達を連れて上京し、神保町に居を構えます。

 

武蔵野音楽大学設立に至る、遥か以前よりも、福井は、自らを慕ってくる若者の面倒を実によく見ていました。女性の弟子が、東京で音楽をもっと学びたいと福井に相談した時、福井は女子音楽学校を推選し、その入学に力を添えてやっています。また、福井の家で食事を共にした教え子を、見事、東京音楽学校へ入学させているし、家政婦として仕えた高野タカには、後年、長野県へ受験に出かけさせ、文部省検定試験、小学校唱歌科教員の免許をとらせています。

この人柄が、後年、武蔵野音楽大学の創立へと至らせる一因となるのですが、その底に流れるものは、やはり音楽に対する愛情であり、音楽教育にかける彼の熱情であったでしょう。

 

しかし残念なことに、明冶41年(1908)5月、長女の死に加え、福井の心をさらに動揺させる、長野師範の全焼という悲劇が起こります。しかもこれは、1人の生徒による放火が原因でした。

 

その7月、福井を長野に招いた原竜豊校長はこの責任をとって辞職し、原田教頭は、中国(当時清国)浙江省両級師範学堂に新天地を求めて去っていきました。

数々の運命的な打繋を受け、原田教頭の誘いのもと、福井は中国へ向かうこととなったのです。

中国にて福井は周囲に煩わされることなく、著作の準備、原稿執筆に多くの時間を費やしました。

-最近の投稿

Copyright© 福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について , 2017 AllRights Reserved Powered by micata2.