福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について

武蔵野音楽大学の創立者である福井直秋。その生い立ちや、歩んできた道のりについてまとめてみました。

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武蔵野音楽大学への移行

投稿日:2016年9月6日 更新日:

武蔵野音楽大学への移行

 

「先日から10日ばかりを過ごしましたが、その間に来年の大きな仕事を考え出しました。

次へ次へと自分で仕事を考え、そしてそれに苦しめられるのだと考えます時、私は誠に損な人物で次へ次へと身の休まらぬ業報をもって生まれたものだと存じます」

これは福井が昭和33年、夏の休暇に、避暑先軽井沢から、彼の秘書本方コトにあてた手紙の一部です。

 

福井がこの手紙を書いた時点においては、武蔵野音楽大学の発展は素晴らしく、彼の生涯の事業の大半はすでに完成し、そしてすでに80歳に達していました。

しかし、それでなお、福井は避暑地に安息の憩いを持ち得ず、翌年の仕事のことに思いを巡らせていたとは、まさに彼自身がいうごとく業報ともいうべきものかも知れません。

 

今、昭和22、3年頃の福井に思いをいたせば、その業報の思いはどれほど激しく、すさまじいものであったかは、想像に余りあるものでしょう。武蔵野音楽大学の前進である武蔵野音楽学校は、幸いに戦火をまぬかれて完全な姿で残り得たことは、福井と学校にとって最大の幸運ではあったが、ただそれだけで戦後教育がつつがなく力強く再開されるものではありませんでした。

戦後の極端なまでに欠乏していた食糧事情と物資不足の中で、学校がその本来の目的をとげるためには、学生の食生活の充実と住居の確保、さらに戦争で荒廃した学校校舎、備品その他の整備、補充と幾多の難問題を抱えていたのです。

 

当時は、現代では想像もできないような「まずなによりも食、次に住」という世相です。

 

武蔵野音楽学校は再建と発展の独自の歩みを始めていきました。そして、この困難な時期に武蔵野音楽学校の方針を決定する、重大な決意がなされたのです。

昭和23年6月発行の「武蔵野音楽学校同窓会報、第6号」に「本校大学移行期成会結成に就いて」と題し、同窓会理事南啓喜は、次のように述べています。

「昭和22年8月5日、戦後第1回の同窓会総会で、政府の学制改革に伴う本校の処置に関し、会長(福井直秋校長)より音楽大学かまたは音楽高等学校のいずれに移行すべきかとの希望意見の質問に対し、全員大学移行1本に全力をつくし、これが達成に御努力願いたいと述べ、会員としても出来る限りの努力を払うということであった」これにより武蔵野音楽大学へのシフトが現実的となってきました。

 

また、「その後、本問題が具体化され学校当局は挙げてこれが実現方に邁進され、また、父兄会も本事業援助に積極的に乗り出し、ついに武蔵野音楽学校大学移行期成会結成の機運がおこり、役員会決議により、父兄会、同窓会一体となって期成会が成立した」ともあります。

このように、福井と武蔵野音楽学校は、新学制による武蔵野音楽大学移行へ全力をかたむけるのですが、福井が同窓会総会席上で「大学か、高校か?」と、今後進むべき道の意見を正した時に、彼の胸中には、壮大な音楽大学への構想がすでに芽生えていたことと思われますが、これは当時として武蔵野音楽学校創立時や専門学校昇格時にも比すべき難事業でした。

 

創立当初、さらに専門学校昇格時や10周年記念当時においては、武蔵野音楽学校は後援会や父兄の財政的援助によるところが多かったのです。同窓会は、まだ数も少なく社会にその実力を問うには、なおあまりに若年でした。

卒業生全員の総意が「大学へ」に結集し、期成会へ発展し、寄付金の予定額を満たした時、福井は、わが子の成長を見る親のように教え子たちの成長した姿と実力を見て、どれだけ深い喜びを感じたことでしょう。

 

もとより音楽教育機関として、わが国初の音楽大学の誕生でした。昭和24年4月18日、新入生95名を迎えた武蔵野音楽大学は、新学制下に歴史的な音楽大学としての授業を開始したのです。

早い故に、尊からずとはいえ、これは全国のあらゆる新制大学の中の第1陣という名誉に輝いたのでした。

 

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