福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について

武蔵野音楽大学の創立者である福井直秋。その生い立ちや、歩んできた道のりについてまとめてみました。

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武蔵野音楽大学設立への第一歩~武蔵野音楽学校~

投稿日:2016年9月6日 更新日:

武蔵野音楽大学の前進となる武蔵野音楽学校の設立には、福井が予想もしなかった帝国音楽学校の設立と関係してます。その様子を解説したいと思います。

 

帝国音楽学校の誕生

大正10年代から昭和初年にかけて、わが国教育会の飛躍充実の時期にあたり、官立、私立を問わず、学校の充実がなされ、それにともない新設学校が数多く創立された時期です。ようやくさかんになった音楽界の動向は、また音楽志望者の附加となってあらわれました。

しかし、この音楽志望者を受け入れる音楽専門学校は官立の東京音楽学校が唯一のものであり、その収容学生はきわめて狭く、大多数の音楽志望者にはほとんど閉ざされているといっても良いほどでした。それは入学試験がそれほど難しかったということでもありました。

 

武蔵野音楽大学はじめ、その他の国立、私立含めた教育機関が発展している現代では想像しづらい状況ですが、昭和2年当時、私立音楽学校は、明治36年創立の女子音楽学校、明治40年創立の東洋音楽学校、大正15年創立の東京高等音楽学院が著名であったが、いずれもまだ各種学校であり、その卒業生にはなんら社会的な資格なり、恩典というものが与えられていないという状態でした。

 

 

 

このような状況の中で誕生したのが、帝国音楽学校でした。それは東京音楽学校の出身者でもあり、当時、楽器店主、高井徳蔵により提唱され創立されたのです。

 

そして高井は人望が厚く、実力者であった福井を校長に就任を要請したのです。

しかし純粋な音楽教育者だった福井には、開校以来それまで想像もしなかった数々の財政的、経営上のトラプルが学校経営者である高井との間に生じたのです。

 

武蔵野音楽大学の創設者として知られる福井が当時、このような辛酸を経験したことはあまり知られていません。

 

学校創立資金に対する利息の引上げ、学校予定敷地の違約、予定ピアノ台数のいちじるしい不足等、福井は予期せぬ不快なる出来事につぎつぎと対決せねばならず、福井の帝国音楽学校にかけた情熱は、怒りとなり、絶望と変化していきました。そして福井は、開校以来わずか6カ月で校長の職を辞しました。

 

しかし帝国音楽学校の創立者は高井でしたが、福井なくしてはその学校教育の続行はまた不可能でもあったのです。福井の辞任を知った生徒全員は、署名して福井校長の留任を切望する要望書を発表しました。さらに、教職員16名は、福井校長とともに辞表を提出する決議を定めていたのです。

 

 

武蔵野音楽学校設立へ

武蔵野音楽大学の設立と発展まで、福井は運命に導かれるように関係者、そして何より生徒の声に導かれていたようです。

 

福井が校長であるという信頼の上にたって成立し得た学校であるだけに、福井の退陣はまた生徒の退陣ともなる道理でもありました。また6カ月の短い期間ではあったが、ともに働いてきた教職員の気持も生徒と同じでした。

昭和3年4月、新しい希望に燃えて出発した教職員と生徒達は、わずか8カ月後の師走の空に暗い気持をいだいたまま、立ちすくんでいました。

 

そしてその心のよりどころは、開校時とかわらぬ校長福井、その人でした。

「福井先生、新しい学校をつくってください」彼等の心の祈りは、叫びとなって福井に出馬をうながしたのです。

 

昭和4年1月16日、福井は、早稲田商業学校校主小池茂実所有の東京府下代々幡町幡ケ谷八にある廃校寸前の老朽校舎を借り受けて「武蔵野音楽学校創立事務所」の看板を掲げたのです。これが、武蔵野音楽大学創立の第1歩でした。

 

武蔵野音楽学校のように、およそ学校創設の決意よりわずか100日足らずで、これだけの速度をもって設立された学校はありません。これは、とても個人の力でなし得るものでもなく、また2、3の強力な後援者の協力だけでもなし得るものでもありません。例えあり余る資金をもってしても、それは不可能です。

しかし、福井はよくそれをなし得ました。それは福井の周囲にいた人々の無私の協力の結果であり、福井を慕う生徒達の絶対の信頼と己れが学ぶ学校設立への燃えるような希望とによってでした。武蔵野音楽大学が今日まで発展した諸々の力の核は、言うまでもなく福井の全人格です。それはたゆまぬ30年にわたった彼のひたむきな音楽教育への愛と努力に培われた偉大な信頼感でもありました。

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