福井直秋【武蔵野音楽大学の創始者】について

武蔵野音楽大学の創立者である福井直秋。その生い立ちや、歩んできた道のりについてまとめてみました。

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生い立ちから東京音楽学校での学び

投稿日:2016年6月14日 更新日:

幼年時代

武蔵野音楽大学創立者の福井直秋は、明治10年(1877)19月17日に、豊かな自然に囲まれた富山県越中国中新川郡宮川村大字江上村(現在の中新川郡上市町江上)の浄土真宗浄誓寺の5男として生まれ、蔵界と名づけられました。当時、寺は村の文化の中心であり、精神生活のよりどころでした。また、父母は村人の指導者としての地位にありました。福井は幼い頃から「讃」(釈迦や祖師達を讃える歌)を得意としており、5、6歳の頃から迎えに来た村人に背負われて檀家へ出かけては声高く歌っていました。

 

武蔵野音楽大学創立まで、本人が意図する、しないに関わらず音楽に導かれていく運命だったようです。

小学校時代の友人、烏丸尊弘は福井の少年時代について「福井君はよくできる生徒だった。先生が休んだ時など、先生の代理をしたことがたびたびあった。それにいい声だったねえ。歌が好きでよく歌っていた」と語り、またのちに福井自身は、「小学生のころ、柳原つたという先生が教壇にベピーオルガンをのせ、音符の掛図を示しながら美しい声で『ヒフミョ」(音階)を熱心に教えてくれた」と、思い出を語っています。柳原は同じ頃、富山で唱歌教育を受け、後年、高名な作曲家となる滝廉太郎でした。10数年後、福井と滝は東京で出会うこととなります。

 

明治20年(1887年)3月、小学校を卒業した福井は、隣村の西加積高等小学校へ入学しました。1日の欠席もなく、4年間首席を通して明治24年(1891)3月、優等で卒業しました。

 

富山県師範学校の頃

 

この頃の福井は、本人でさえも武蔵野音楽大学の設立者となる将来が待ち受けているとは思いも寄らなかったでしょう。

 

高等小学校を卒業した福井は、ほとんどの学友が農業である家業についたなかで、ただ1人、教師の手伝いをする代用教員となっています。14歳だった福井が、正教員への道、師範学校を目指したのはきわめて自然なことだったといえるでしょう。そのようにして、福井直秋は、明治28年(1895)4月、18歳で、富山県師範学校に入学しました。

 

福井は生真面目で規律を守る資質を持ち、また「夕食後の校庭で、福井君はよく歌を歌っていた。彼は美しい声の持主だった。それでわれわれも彼につられて、よく歌ったものだった」という音楽に秀でた特質はこの頃から垣間見えます。「音楽は福井」の通り名は、同級生のあいだではもちろん、学校中に響いていました。

福井が2年生に進級した時、師となる安田俊高に出会います。彼は、後年、高名な軍歌「橘中佐」を作曲した人物です。

 

武蔵野音楽大学設立までの道は、戦前、戦後を通した非常に長い道のりとなります。少年福井にとっては、この後の東京音楽学校への一歩が音楽の世界を本格的に歩むための小さな足がかりとなったのです。

 

東京音楽学校に学ぶ

 

福井が大志をいだいて、東京音楽学校へ入学したのは明治32年(1899)9月、22歳の時でした。当時の常識として優秀な成績で師範学校を卒業したならば、進学先はさらに上級の「東京高等師範学校」がふさわしいと考えられていましたが、福井の決意は固いものでした。福井はここでも次第に指導者の資質を示していきます。

 

「福井さんは、普通の学生とどこか違っていました。何というのでしょうか、しっかりしているというか、何かとうるさい音楽だけしかできない都会っ子たちも、だんだん福井さんのいうことをよく聞くようになり、学友会などの取りまとめ役は、ほとんど福井さんがなさっていました」と同窓生の鈴木乃婦は当時の福井の姿を語っています。

そんな日々のうちに、福井は彼の一生に決定的な影響を与えることとなる、四人の人々に出会うのでした。それは大石光野であり、小山作之助と島崎赤太郎であり、滝廉太郎でした。

大石光野は、やがて福井の妻となり、以後、武蔵野音楽大学を設立し、69歳の生涯を閉じるまで福井の一生をかけがえのないものとし、その事業のほとんどを支えたのでした。小山作之助と島崎赤太郎は、ともに東京音楽学校教授で福井の恩師であり、福井の卒業後の歩みは、この2人の恩師の強い影響と指導によったといっても過言ではありません。滝廉太郎は、明治31年(1898)、音楽学校を卒業して研究科に進み、翌年9月にはピアノ授業嘱託を命じられ、授業補助となっています。福井はこの2歳年下の師に、多くを学ぶこととなりました。

福井が音楽学校3年生の明治34年(1901)4月6日、滝廉太郎はドイツヘ留学し、明治36年(1903)6月29日、23歳の若さでその一生を終えるまで、再び会うことはありませんでしたが、わずか2年7カ月のあいだに、福井が滝廉太郎から得たものは多大でした。「滝廉太郎は、わたしの師であり、畏友であった」と福井は後年まで語っています。

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